藤井 正人(ふじい ただひと)
代表取締役
元厚生労働技官(国家公務員)理学療法士
JOPA(日本オステオパシープロフェッショナル協会)講師
IPNFA(国際PNF協会)認定国際ライセンス
出身地:長野県
誕生日:1971/10/15
血液型:O(Rh+)
趣味:食べること、温泉めぐり、登山、スキー、ギター
A Bit About Me
私は理学療法士として26年以上経過しました。国家公務員で管理職にもつきましたが、やはり自分は組織を管理する事よりも、怪我や病気をされた方々が、良くなっていく姿をずっと見て行きたくて、独立を選択しました。私は山登りやダンス、スキーもするし、楽器も弾きます。そうしたことが続けられるために、自分自身も健康でなければなりません。そのために必要なことを勉強していくと、それが仕事にも応用できます。こんなに恵まれた環境はとてもありがたいことですが、日本の環境は健康にとって、とても良い環境とはいえない方向に向かっていると考えています。そんなことを多方面から情報提供できるように、日々勉強していくことが私の生業となっています。
Work Experience
1995年4月 - 2002年3月
国立東京第二病院
(現国立病院機構東京医療センター)
2002年4月 - 2006年3月
国立沼田病院
(現国立病院機構沼田病院)
2006年4月 - 2008年3月
国立病院機構甲府病院
2008年4月 - 2010年6月
国立病院機構
まつもと医療センター松本病院
2010年7月 - 2012年3月
佐久市立国保浅間総合病院
2012年3月 - 2014年5月
介護老人保健施設 にしじょう
2013年5月27日
ニュートラル
オステオパシーラボ開業
平成7年(1995年)4月に理学療法士として初めて入職した病院。その年はちょうど地下鉄サリン事件が起きた年、ここも3次救急施設として機能していました。780床に理学療法士5人という過酷な環境。1日40人以上を担当することも。整形外科では股関節疾患で全国から患者さんが集まっていました。脳外科、神経内科等一般的なリハビリに合わせ、3次救急施設もあり、交通外傷等で頭蓋骨を外した瀕死の状態の方々にも携わりました。精神科病棟では分裂病(現診断名は統合失調症)の隔離個室、拒食症、転落外傷(いわゆる飛び降りや飛び込み)など、多くの疾患に携わることができました。
主任に昇格して初めての異動はリハビリテーション部門の立ち上げ。
視覚障害を持たれ、優れた感覚を持ったマッサージ師1名と新人理学療法士合わせて3名で対応。スキーや登山、パラグライダーなどアクティビティによる外傷が印象的。私の中では一番腕の良い整形外科医と出会えたのもここです。私服警官に囲まれて、銃創患者のリハビリもとても印象的でした。僻地医療の拠点でもあったので、地域にて高齢者の運動指導を行いましたが、大変喜ばれました。
スキーの元トップデモンストレーターが患者としてこられたのをきっかけに、プライベートでスキー指導いただき、スキー検定1級に合格させていただきました。
2回目の異動先は国立西甲府病院(療養所)と国立甲府病院の統合後の組織再編成が主な仕事なりました。結核病棟(現在は閉棟され、リハビリテーション科施設に)では陰圧管理された隔離病棟における感染対策をしたリハビリを行いました。小児救急施設(NICU)もあり、手のひらサイズの未熟児の呼吸介助、発育不全で在宅環境を整え、自宅に帰るまでのリハビリ、指導なども初めての経験で、長野こども病院での呼吸勉強会にも参加させていただきました。重症心身障害者施設も併設されており、そちらでは一般社会にほとんど出ることのない様な障害者のリハビリを経験しました。整形外科では膝の靱帯再建術を得意とした医師が配属された為、学生や実業団のラグビー選手、スキーインストラクターなどのスポーツリハビリテーションにも関わり、PNFの技術が大変役立ちました。
国家公務員としては最後の異動になりました。こちらも療養所である中信松本病院と急性期病院である松本病院の統合に伴う組織再編に携わりました。私の所属した松本病院には整形外科や脳卒中など神経疾患の一般的リハビリテーションはなく、血液内科、循環器科、消化器外科、泌尿器科(ホルモン系)の内部(内臓系)疾患を取り扱うとても難しい現場でした。このタイミングで偶然か、必然か、オステオパシーに出会う事になり、これらの疾患に対しても回復に向けた対応ができる技術を身につけるきっかけになりました。
国家公務員を離れ、地方公務員として佐久市国保浅間総合病院に転職しました。その翌年に東日本大震災で被災した銀河連邦友好都市である岩手県大船渡市へ、市の災害派遣チーム第3班として被災後12日目に行きました。仕事は主に医師の臨時診療所への送迎、医療物資の調達、避難所での運動指導を行いました。そんな中、津波に飲み込まれ全身打撲で助けられた方が、とても辛そうに歩いていました。全身内出血で両下肢はパンパンに腫れ上がっていましたが、病院が重傷者優先の為、避難所生活。その方にオステオパシーで得た技術で施術を行なったところ、一瞬で下肢の腫れがひき、翌日には階段も上がれるくらいに回復していました。自分の中に神が降り立ったような、本当にそんな気分でした。
私の実家そばにある、医療法人天祐堂 松林医院より老人施設の立ち上げについて相談を受け、そのプランに参加することになりました。新人理学療法士1名と入所者と通所リハビリを行いました。初めての介護保健分野でしたが、医療機関での経験を生かし、通常行われる生活動作などの機能的リハビリよりも手技療法を中心とした、機能を「底上げする」保健施設を目指し、組織形成を行なってきました。
高齢者ということは関係なく、適切に対応すれば、動作改善、生活改善することができるということを示すことができたと自負しています。
施設の仕事の合間、夜間の時間を利用し開業準備に入りました。
この年に完全独立し、今までの医療機関、介護保健施設合わせ20年あまりの理学療法士の経験を生かし、フリーランスの施術家としてスタートし今に至ります。